坂本龍一の音楽感に共鳴する

のっけからいきなりコンサルティングの話題ではないのだが、
こんな記事を見つけた。


坂本龍一さんに聞く ネット時代の音楽表現とは


ネット時代に、どのような思いで制作しているか、との質問に

「ネットでは圧倒的多数に視聴され話題にされないといけない。ブログでいえば、とにかく受けないといけない。やがてアクセス数をかせぐことが目的になってしまう。でもぼくはブログを書いているうち『君たちのためにやっているわけじゃないよ』という気持ちになり、ブログを閉じちゃった」

この「君たちのためにやっているわけじゃないよ」
という部分。すごく共感する。
何か自分がアウトプットするとき、別にそれは音楽であれブログであれ文章であれ、自分のはき出したいものがあってはじめて意味が生まれてくる。


自分はヴァイオリンを弾くのだが、なんで弾くのだろうと考えると気持ちいいからである。ヴァイオリンの羊の腸で出来た弦を、馬の毛でこすり、それが摩擦を生み、自分の声では絶対に表現できない、なんともいわれぬ美しい音を出す。それが単純に気持ちいいからである。
誰かに聴かせたいから弾くのではない。自分が弾きたいから弾くのだ。

顔の見えない、何をおもしろがるのか分からない大量のユーザーのために音楽を作る必要性を感じない。作りたい音楽があるからやっている。


ブログもそうあるべきと考える。他人と同調するために書くブログほどつまらないものはないだろう。そんなものは会話の中の「はい」「そうですね」といった相づちにすぎない。「はい」「そのとおり」「そうですね」といった内容だけの本に何の存在価値も無いのと同じように、何かそこに書き手の独自の意見や視点が盛り込まれて初めて、その記事が単独で存在する理由が生まれてくる。

それでも、音楽家は、一握りのヒットメーカーを除いて職業とすることは難しくなるだろう。ぼくはメガヒットメーカーには入れない。口うるさい古本屋のオヤジになって、ブログとかを書いているかもしれない。あるいは学校の先生になって音楽について教えているかもしれない

コンピュータを駆使した音楽作りの、先駆者である彼の言葉にしては随分気弱な言葉と感じる。30年前も今も、人の感性は常に変わり続けている。それは今も昔も変わらない。自分の表現したいものを持っていれば、ツールの変化は問題ではないだろう。ただ表現すればいい。


「ヒット」「人気」は何で生まれるのだろう。それは作り手、書き手といった表現者の表現に、多くの他人が共鳴したかどうかで決まるのではないか。ではその「共鳴」はどうやって生まれるのか。


表現の内容が「独自」であり、
その表現の仕方が「普遍的」なときである。


坂本龍一の世界は独自だし、音楽は普遍的だ。
坂本氏よ。表現したいものがある限り、
音楽を作り、発表し続けてください。