卒論をめぐる古今の事情

今日、個人的に請け負っているシステム開発の仕事の打ち合わせに行ったのだが、そこで卒論の話になった。


そのクライアントがいうには、彼が大学を卒業したころ(今から30年近く前だろうか)は、卒論を製本したときにその本が「立つ」ぐらいの量を書くことが求められたとか。100枚以上は書かないと、それは「立たず」に「倒れて」しまうそうな。文字数にしてどのくらいの量なのかというと、当時は1枚の紙の文字量が200字だったので、20000字以上ということになろう。


なにせ手書きなので、一文字修正するだけで全部書き直し(!)という大変さだったそうだ。書くにも時間がかかるため、夏休みが終わるまでに大量の文献を読み、最低60枚は書いて教授に提出するというノルマがあり、その後、内容をふくらまして100枚にしていく。


パソコンが普及し、文章の修正などなんでもない時代になった。文献の収集ですら、家から一歩も出ることなくネットでかなりの程度済んでしまう。かくいう私もネットで見られるPDF形式の論文や、新聞記事のオンラインデータベースなどに相当お世話になっている。また、それらの情報を一元化して管理するEvernoteのようなツールもある。なんて便利なんだろう。私はさぞかし楽に卒論をこなしているはずだ。


ところが、卒論の進展に大いに問題を抱えている。
まず文献などあっという間に集められると高をくくって、卒論のテーマが決まったのが、10月に入ったころ(汗)。


確かに、得意の"ITリテラシ"(笑)を使って文献はあっという間に集まった。が、集まりすぎた。情報の収集に終わりが見えないのだ。それらを読み、自分に必要なところだけを取り出すのだけでも時間がかかる。それらを文章に構築するのにまた一苦労だ。


昔の卒論大学生はどうだったろう。


時間をかけないと書けない分、長期的に物事を考える必要があり、早めに文献を読み始めて、じっくりと考えを深められる。そして書き始めも早いので、推敲の時間も長く取れたのではないか。結果的に、内容の深い卒論になることが多かったはずだ。


ITとパソコンというパワフルなツールを得た自分が、昔の学生よりもお粗末な卒論を出さざるを得ない状況に追い込まれていることに情けなさを感じずにはいられない。


情報を集める、管理するという部分が圧倒的に簡単になった今、論文を書くに当たってもっとも大事なところは、その集めた情報から何を新たに生み出すかを徹底的に考え抜くことだ。


そしてそこで必要なものは「時間」である。梅田望夫氏が述べるように、今後もっとも大事なリソースが「時間」になっていく。情報の「Collect」の時間を最小限にし、どれだけの時間を「Think & Output」に使えるかが、真のITリテラシーをもった人間にもとめられる素質だと思う。